居ずまいを正して古人の列に連なる。
現代に生きている私が古人の思いや感覚を余さず感じとり表現することなど、どだい無理な話ではある。しかし、古典音楽やその表現がなぜあのようになっているのかとマクロにミクロに思いを馳せればおのずと得手勝手は封じられ、創造は脳内に形づくられる「あらまほしき古典」の表現を達成するためのみに行使されることになる。我が師曰く
「古典、伝統は創造無きところに存在し得ない」。これは自由に創造せよという意味では全くない。閉じた宇宙である古典にあって、まず基本をもってその宇宙を知悉し(たつもりになれる程度には精進し)、そのうえで、閉鎖空間にいながら外宇宙にさえ達する(と思いこめるだけの鍛練を積んだ)音を奏でるために創造が必要だと、下手に喩えればまずそんなところだろうか。遠い次元のお話だ。
先月下旬、とある佳ききっかけをいただいた。平生は京都のあばらやで竹を吹き、ものを書くばかりの私だが、これを機に少しは音やコトバを外へ漏らしてもいいのかなと思うようになった。当節は短文主体のSNSが大はやりでブログはもはや時代遅れのメディアだそうだが、尺八なんぞ吹いているこちとらはアナクロこそ望むところ。思うところあれば書く、無ければ書かない。音も、いい録音環境に出合えればそのうちここに載せるかもしれない。
ひとまず今は、残月の冒頭、一音目を琴古流はどう吹くべきかについて、今さらさまざま思い迷っている。結論は当分出ないだろうが、三曲合奏における竹の表現の極北となるべき個所であることは間違いない。「レ」の装飾表現は琴古流において独特かつ特別のものであり、また残月の前弾きは糸にとってこそ竹の勝手を許すわけにはいかない絶対の急所であるからだ。そして、糸と竹は本来どう音を融通し合っていくべきなのかという基本的な問題は、もちろんこの前弾きに限らずあらゆる三曲について回る。
三曲合奏が行われるようになって200年は経つだろう。しかし、竹を糸にどう合わせるかは私にとって常に頭を悩ませる喫緊の議題であるし、常に解決へ向けて運動していなければならない楽しいナゾナゾでもある。さても、このように足りない脳ミソで「悩むことができる」のは、私が早30年近く教えを乞う師匠の、「保守本流」でありながら「リベラル」もしくは「アナーキー」ですらあるという類まれなお人柄によるところが大きい。追って書くこともあるだろう。
K-5Ⅱs
字だけだと寂しいので賑やかしに写真も載せるが、本文との関係は全く無いことがほとんどであるはずだ。