「何を歌ってるのか分からんねん」と、和田アキ子がYOASOBIを評して云った。と、つけっぱなしのテレビで誰かが喋っているのを聞いて、「同感!」と快哉を叫んだ。彼ら(というかボーカル女史)の発音は明瞭、かつごくフラットなワードしか並んでいないから、詞は完全に聞き取れるのだが、聴きながらふと「これ、何の歌なんだ?」と考えてみると、これが全く分からない。安直な励ましソングとは違う、それよりもずっと希薄な空気、あるいは虚無のようなものが言葉の周りを “満たして” いるような。だから、意味が聴き手に染みてこない。聞き終えて、手の内に何も残らない。
メロディラインとボーカルの声質があまりにキャッチーであるがために、「他の要素をどうしようと売れるから、詞のほうは、それらしく作りながらどこまで真空に近づけることができるか試して遊ぼう」という、これは企画であったのだ、と事情通が教えてくれたなら(そんなことはあり得ないのだが)大いに納得し、かつその真空仕事の完璧ぶりに舌を巻くだろう。そんな言語明瞭・意味不明の歌を、頻繁に、しかもソコソコ心地よく聴いているのが私であって、だからよけいに「これは何なんだ?」と不思議なのだ。
あとでネット記事を漁ると、和田アキ子は先の発言について「何と歌っているのか聞き取れない、という意味だ」と補足したそうだが、イヤイヤ、先述の通り歌詞はごくごく聞き取りやすいのだから、これはおそらく真意とは違うフォローだろう。
別に竹の話にこじつけなくてもいいのだが、音楽に限らず芸術一般の話として「巧いは巧いけど、伝わらない、心が震えない」というパフォーマンスや作品は確かにある。やたらと耳をとられて聴いてしまうけど、いざ興味を持って皮を剥いていったら芯のない玉ネギだったと、そんな音楽もヨノナカ的には大切ではあるのだけど、それはひとさまに任せて、私は人里離れた花深き処に分け入ることを目指したい。結果、花に埋もれて誰からも見えなくなったとて、私はきっと幸せだ。
K-1Ⅱ
「私はもう古い人間だと思う」と社長の座を譲る(譲って会長の座に着く)豊田章男氏の言う。私は早いこと古い人間になりたいのだが、デジタル分野ではとうにひねまくりの時代遅れだ。そんな私がトラブルもなくYouTubeに動画を上げられたのだから、どうやらソッチ方面は、贅沢を言わなければさほど難しいハタケではないのかもしれない。
なになに、換算20mm単焦点の「機能割り切り・初心者向け」vlog用ムービーカメラだと。その焦点距離、扇の要から三曲合奏を撮るのにドンズバの広さではないか? おっ、このマイクなんかはシューにかましたらカワイイ感じになりそうな。