宇宙が始まる前に何があったのか(あるいは、その何かが始まる前には何があったのか、以下無限)、とか、真空を満たしているというモノは何であるか、とか、この目で確かめようがないのに考えをとられてしまう事柄はさまざまある。
音楽の始まりはどこにあったのか、もちろん分からないが、遠い昔のある日ある時ある場所で、誰かが何かの音(声であった可能性が高いだろう)を聴いて、突然そこに美を、あるいは心を怪しくさせるなんらかの作用を発見し、やがてそれを再生し、固定化あるいは展開させようと試みた。そんな単純な図式にはならないにせよ、まあ誰かが気づいた時点というものはあっただろう。後のすべての音楽芸術の萌芽がその時点の一音に内包されていたわけで、当たり前だが史上最もエントロピーの低い音楽であったと云える。
鏡のような水面に落ちた一滴の波紋のように、音楽は凄まじい勢いで増殖してきた。幾重もの難関・フィルターをくぐり抜けなければオノレの音楽を世に問うこともできなかった時代を経て、いまやスマホひとつあれば、カラオケで熱唱するオノレの棒歌をさえ世界に発信することができる。それを誰が聴いてくれるのかという問題はさておき。いや、ひとさまの音楽がイヤだというなら、やはりスマホをいじって作曲・演奏までをこなすことだってできる(もちろんやり方は知らないが)。デスクトップ・ミュージックからパームトップ・ミュージックへ。音楽はひたすらエントロピーを高め続けている。
人間五十年から人生百年時代などと、仮に人の寿命が現在までの一定期間に倍に増えたとして、その間にヨノナカの音楽の数はいったい何億万倍になっただろうか。世に溢れる音楽の何%に触れることができるか、という計算なら、音の洪水の中を生きる現代人は、いにしえの人々に倍する時間を持ちながらも、割合においては世界のよりわずかな音楽をしか楽しめぬままあの世へ旅立つことになる。ヘリクツだろうか。
私にしたって、古典を愛する以上はひとさまの曲を吹いているわけで。古い曲と、幾代か伝えられてきた吹き方という一定のうつわの中にオノレ銘柄の酒を注ごうとしてはいるが、大きな位相においてはカラオケ動画と同じである。あなたと私の竹の音が違うといっても、縦笛を吹いて鳴らしていることに変わりはなく、まあ九割五分がとこは一緒と見なしていいだろう。
でも、残りの五分を丹精して「私の風の色」を練り磨いていくのが尺八であるし、他の楽器だって歌だって同様だろう。音楽は総体としてはエントロピーを増大させていく一方だが、個々人は五分にエネルギーを集中させ、それぞれに低エントロピーの音楽を創り出す。他を圧倒するエネルギーが籠められた光球の如き音楽は、有象無象の音の群れの中でもおのずと際立ち、支持を集める。それは素晴らしいことだが、ヘタをするとそのまぶしさの劣化コピーや改竄、換骨奪胎などによって、いつしか元祖のエントロピーは無様に増大し、汚されていくことさえままある。我が琴古流は琴古流を汚してはいないか。要慎、さらに要慎。
そう、ひとさまの音楽を吹いて人生を終えるのみであっても充分に楽しいが、そのうちオノレがよがるためだけの音楽として、地歌の一曲でもひねってみたいものではある。となると、邦楽にせよ洋楽にせよ、楽理というものをもうちっとベンキョウしておくんだったなァ。いや、地歌好きを標榜するならせめて三絃をかじるくらいのことはしておくべきだった。
よしなし、よしなし。
LX100
7月19日(月)11:20からのNHK-FM「邦楽のひととき」では、同じ日にオーディションを受験した中嶋ひかるさんの曲(スタジオ内の人員入れ替えで聴けなかったけど、牧野由多可作曲「風」だったかしら。間違っていたらスミマセン)も流れるそうです。ますます楽しみだ。勝手ながら、こういう面においては大いにエントロピーを増大させていきたいものです。