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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

言を繰る

別に〆切があるわけではないが、長らくほったらかしにしてしまった。その間、いろいろあったような、大したこともなかったような。

いや、「うまいもんや いっしょう」の閉店は、大したことだった。まったく惜しい。私などはこの先も日本酒を呑みのみ、千鳥足で生きていく鉄路にもうしっかり乗っているので天地無用だが、これから日本酒の旨さや奥深さにふれることになるご新規さんを導く酒の精、京都におけるその酒精の筆頭格が、カムバックの予定を明らかにすることなく去ってしまう。その勿体なさといったらない。

これこれを、よろしければ一読いただきたい。1月末日をもって閉店となる、その数日前に無理を言って空けてもらった席にひとり滑り込んで4時間半・半升ほど呑んだ夜は、私の鉄路のかなしい分岐点とはなるだろう。この先はきっと、行く手が少し昏くなる。


AQUOS R8 pro

さて。前にも書いたような気がするけれど、私はいろんな吹奏スタイルを兼備することに興味がなく、どちらかというと「マルチ」であることをニガテとし、遠ざけようとする傾向がある。初めに古典の手ほどきを受け、そのまま古い曲ばかりを習い愛好するうちに、あたら古典の長所や勘所を放棄して洋楽の刺激に馴化していった音楽群(のおおかた)には値打ちを感じなくなり、そのまま好みが固まってしまった。この過程でマルチ嫌いの性向が確定したのか、あるいは元来のマルチ嫌いから必然的に辿るべき道筋だったのかは分からないが、ま、気がつけば「俺はこういう竹吹きだ」になっていたと。

これは、ただの好みの問題。私に限らず誰が何を好もうが、後ろ指をさされる/さす筋合いはない。だがそうではなく、ひとつの曲を吹く中に、いろんなスタイルが鵺のように同居する筋の通らない吹き方は、好み云々ではなく「いや、アカンやろ」とつい咎めたくなる。こんなことを書くのは人間、大概は具体的なデキゴトがあったからであって、そう、遠からぬ過去に某所で「アカン」竹を聴いてきたから書くのだ。

まずもって、横紙破りの吹き方だ。アタる/アタらない、ユル/ユらない、ハズむ/ハズまない、笹の葉の形状、ブレス位置、その他もろもろ、あらゆる琴古の吹奏ルールや審美的メソッドに照らしておよそ統一感がなく、こんなもんでいいんだろ、というテキトーが透けて見える。なんなら、習い性になっているのかもしれないが、たまにタンギングまで堂々と使っている。古曲でだ。趣味や習いごとで吹くどなたかの演奏ならわざわざこんなところであげつらうことなどしないが、そうではないから始末が悪い。「そうではない」ということはつまり、そのアカン演奏をまねぶかわいそうな人が、時とともに増えていくなりゆきであるということだ。教えることは常に罪と背中合わせであることを、かの奏者は理解しているだろうか。

「いや、アカンやろ」レベルのダメ出しに加えて「好み」レベルのことを云うと、この人は音符を指定された音高と長さで尤もらしく並べはするが、音楽を吹いてはいなかった。ダレから譲り受けたかさぞやの名管、単音を切り取れば悪くはなかったが。即ち、音はあってもうたがない。フレージングに陰陽・裏表や然るべき抑揚、入れ子の構造がなく、ゆえにもちろんスイングもグルーヴもない。ただシリンダーの突起に応じて櫛歯を弾くオルゴールのよう。長く吹いていれば節などある程度はおのずと身につくものだろうに、邦楽に限らず、いい音楽を聴かずに育ったのか。否、諸条件からそれは考えにくく、とすれば、妙音妙曲を聴く耳はあっても消化する重要器官がない、もしくはキャパが小さすぎるということか。己の本領と他領の区別もつかず、安易で半端な寸借を重ねて鵺になってしまうのも、おそらくはそのせい。己の所有でないものを薬籠に入れるなら、念入りに煮て焼いて練って、真に薬としてからでなければそれは毒になる。

これも前に書いたように思うが、「アカンやろ」に憤りを覚えるのは、自分の中にアカンの芽が無数にあるからだ。そのデリケートなアカンのオンパレードを澄まし顔で「これが尺八というものでござい」とばかり披露されると、わりとパワフルな近親憎悪がはたらく。つい最近、初学入門手引にしっかと書かれている、とある大事なルールを数十年破り続けてきたことに気づいて愕然としている、そんな私にとやこう言われるかの奏者もいい面の皮だが、いや、あなたのそれはホンマにアカンのよ。
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コメント

1. 無題

イイネ

プロフィール

HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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