またも告知をしないまま、舞台をふたつ終えてしまった…。このズボラよ。事後報告その壱をば。
11/16(日)
「第26回 音和会」
京都堀川音楽高等学校 音楽ホール
伊福部昭作曲の「サハリン島先住民の三つの揺籃歌」を清水翔仁さんと、乱輪舌を島田洋子先生と合奏いただいた。
サハリン。今のバイクは知らないが、昔のそれにはアイドリング回転数を調整するネジがあった。ピアノにもピッチをイジれるツマミがあればいいのにと、合わせるたびに思う。日頃からほぼパートソロでしか演奏しない私ゆえの身勝手な発想。
さておき、ヴォーカルを九寸管で吹いて毎度の泥縄で練習していたのだが、3曲目の「ウムプリ ヤーヤー」を吹こうとするとツの大甲が頻出するので1オクターブ下げていたところ、あまりにも地味で我慢ができず、前日に八寸管譜を作ってみたところ、九寸の大甲ツが八寸のハ四なのでめでたく収まる音域にはなるのだが、最も出番の多い九寸のハ五は八寸ではヒ五中となるので、吹けることは吹けるがやたらムズい譜とはなりにけり。前夜に何度か吹いてみて、まあこりゃノーミスでは済まないなと思いながら舞台に上ったところ、やっぱり大いにやらかして、でも、この曲の尺八での演奏はとても気に入ったので、リベンジフラグが立ったのは悪いことではないと負け惜しむ。
みだれは、曲決めが半年以上前だったろうか。コンクールのために独奏でそれなりに吹き込んでいた曲だったので、箏と合わせてひと段落ということにしようと考えたのが運の尽き。独奏のほうが軽く10倍簡単だった。コンクールで5分ぶんは覚えたし、もともとおよそ覚えてるんだから全曲暗譜も軽いだろうと考えていたが、絃の手が入ると途端にオノレの手が全く信用できなくなる。替手と云える竹の手をみだれとして(ほぼ)覚えてしまってよかったのかしら。といって、絃の手を覚えたうえで、そこに竹の手がどう添うのかまでを覚えきる時間と自信はなく、恥ずかしながらで譜を置いての本番とはなったのだった。島田先生は言わずもがな、さらりと完璧。調子イマイチの私を、自然でありながら張り詰めたグルーヴで巧く転がしてくださった。
そう本番。この日の舞台はなぜだかとてもうすら寒く、楽屋で先生に申告していた442Hzより吹き始めの音が下がってしまった。だからと当たるわけではないのだが、これは邦楽全体の話として、緞帳のない舞台で、曲前にキッチリ調弦をとることはなぜいけないのだろう? 調弦の終了と曲のスタートが近いほどピッチが合うことは自明なのに。
弦楽四重奏などでは弾き始める直前に、オーケストラでも指揮者が登壇する直前までチューニングをやっている。邦楽器でそれがいけない理由はなかろう。クラシックではAのチューニングがひとつの序奏となっている、というのであれば、邦楽器もDでの調弦をジングル代わりにしてしまえばいい。始まって「あ、ヤバ」から修正して曲全体に悪影響を及ぼすことに比べれば、お客さんの時間と耳を少々拝借することがどれほどの損失か。
ついでに。舞台での調弦が許されている場合でも、多くの人は「なるべく早く」というより「きちんと確認できたのかどうか心もとないくらいの早さで」そそくさと調弦を切り上げる。許されているのだから、得心ゆくまでキッチリやるべきだ。過去に何度…いやゴホン。
さらに。そのシチュエーションであれば、少なくとも竹含みの三曲合奏なら基音を出す楽器がすぐ横にいるのだから、チューナー調弦はやめませんか(言い逃げ)。尺八から出るベストの音は、もちろんきれいに1Hz刻みではありませんよ(言い逃げ)。
例によって邦楽器には響きすぎるこちらだが、サハリンでは気持ちよかったり。